全面禁煙する企業が大幅増加、職場での喫煙は「サボり」なのか

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記事の情報は2017-10-25時点のものです。

企業の職場においてタバコを禁止する、いわゆる「全面禁煙」の動きが加速している。帝国データバンクが発表した調査によれば、社内での喫煙を不可とする全面禁煙は22.1%と企業の5社に1社が実施している。
全面禁煙する企業が大幅増加、職場での喫煙は「サボり」なのか

愛煙/嫌煙戦争がついに最終局面に

ながらく一進一退が続いてきた、愛煙/禁煙問題。健康、マナー、環境、あらゆる観点で、嫌煙はもはや絶対正義のポジションを取りつつあり、これが揺らぐことはないように見える。

帝国データバンクが行った「企業における喫煙に関する意識調査」によれば、自社の本社事業所もしくは主要事業所内の喫煙状況について、適切な換気がされている喫煙場所がある、または屋外に喫煙場所を設けている「完全分煙」が56.2%で最も高い割合となった。

また、社内での喫煙を不可とする「全面禁煙」は22.1%と企業の5社に1社が実施。以下、「不完全分煙」(10.0%)、「特に喫煙制限は設けていない」(7.3%)、「時間制分煙」(3.4%)が続いている。

愛煙家に対して、日々厳しい目が向けられる昨今である。そのなかで、企業において、喫煙の全面禁止や喫煙者の不採用を主張する理由として、「生産性」あるいは「サボり」がその有力な根拠とされることがある。

これは、一見論理的で正当な主張のようにみえるが、筆者は「実は思考停止をしている主張」ではないか?と考えている。

そればかりか、「職場における全面禁煙への姿勢が、経営に携わる人々の”思考の公平さ”を測るバロメーターになる」とも考えている。

本稿では、この「全面禁煙」の問題を通じて物事をいかに順序正しく考えられるのか、ということについて提言をしたい。

自身の趣味嗜好がはっきりしていて、世間や周囲の見解がそれと一致している場合に、思考停止は発生する。一見すると正しくて、誰がどう見ても反論するのが難しい論件こそ、慎重になるべきだ。

まずは、嫌煙の論理をおさらいしてみよう

筆者自身は嫌煙家と愛煙家の、両方の気持ちがわかる中道派である、との自認をしている。ヘビー・スモーカーではない。時々煙草を一服することは好む、いわば「時々喫煙者」である。

煙草の臭いは嫌いだし、髪や服につくのはもっと嫌いだ。「あちらこちらに灰皿が配備されている世界」と「できる限り灰皿を撤去した世界」のどちらを選ぶかと言われたら、断然、後者である。

思えば、ほんの20年ほど前は、待合室や執務室など、公共の場所には灰皿が置かれているのが当たり前だった。いまやそのようなものは影も形も見当たらない。おかげで日ごろ過ごす空間は非常に清潔になり、快適になった。

「職場で喫煙をするべきではない」という考え方は、主に次の4点によって支えられてきた。現在の快適な環境は、この賜物である。

  • 煙草の煙は不快な臭いであり、周囲の人にとっては迷惑だ
  • 副流煙は、周囲の人に望まない健康被害を及ぼすので許されない
  • 健康を害することをわかっていても止められないのは意志が弱いからだ
  • 世界の先進国では禁煙ブームで、これに目をそむけるのは前時代的だ

一方、禁煙運動に警鐘を鳴らす勢力も存在する。彼らの論理は、いかに喫煙が有害であると言えど、国が強制するものであってはならない、というものである。

これらの論理は「喫煙を選択する自由」を否定する根本原理たり得ていなかったのだ。

前半の2点については、まさにこれを解決するために分煙化が進められている。

後半の2点については、「自己責任」の一言で済ませられると、嫌煙家としては二の矢を繰り出すことはできない。

そう、従来の禁煙運動の論理は、周囲に迷惑をかけないことを遵守する限りにおいて、「自己責任」という最終防衛ラインを突破することはできなかったのである。

愛煙家の「たしかに健康には悪いかもしれないが、それをやめるかどうかの判断は、個人の自由を保障するべき」という言い分は、民主主義や法の下の平等といった、近代的な社会システムの根拠としている人間観においては、論理的には否定することはできないのだ。

時々それは、世界で最初に禁煙運動を始めた、ナチスドイツのヒトラーを引き合いに語られる。ヒトラーは非喫煙者で、国民の健康増進運動の一環でたばこを禁止したが、それが優生思想に結びつき、最終的にはアウシュビッツまでたどり着いたのだ、と。

その根拠はどこにあるのか、という思想史的な原点を探すならば、やはり、ルソーの社会契約論になるのではないだろうか。すなわち、社会契約にあたっては「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてを挙げて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」という要件である。