全面禁煙する企業が大幅増加、職場での喫煙は「サボり」なのか

職場でのタバコを禁止する、いわゆる「全面禁煙」の動きが加速している。帝国データバンクが発表した調査によれば、社内での喫煙を不可とする全面禁煙は22.1%と企業の5社に1社が実施している。

全面禁煙する企業が大幅増加、職場での喫煙は「サボり」なのか

愛煙/嫌煙戦争がついに最終局面に

ながらく一進一退が続いてきた、愛煙/禁煙問題。健康、マナー、環境、あらゆる観点で、嫌煙はもはや絶対正義のポジションを取りつつあり、これが揺らぐことはないように見える。

帝国データバンクが行った「企業における喫煙に関する意識調査」によれば、自社の本社事業所もしくは主要事業所内の喫煙状況について、適切な換気がされている喫煙場所がある、または屋外に喫煙場所を設けている「完全分煙」が56.2%で最も高い割合となった。

また、社内での喫煙を不可とする「全面禁煙」は22.1%と企業の5社に1社が実施。以下、「不完全分煙」(10.0%)、「特に喫煙制限は設けていない」(7.3%)、「時間制分煙」(3.4%)が続いている。

愛煙家に対して、日々厳しい目が向けられる昨今である。そのなかで、企業において、喫煙の全面禁止や喫煙者の不採用を主張する理由として、「生産性」あるいは「サボり」がその有力な根拠とされることがある。

これは、一見論理的で正当な主張のようにみえるが、筆者は「実は思考停止をしている主張」ではないか?と考えている。

そればかりか、「職場における全面禁煙への姿勢が、経営に携わる人々の”思考の公平さ”を測るバロメーターになる」とも考えている。

本稿では、この「全面禁煙」の問題を通じて物事をいかに順序正しく考えられるのか、ということについて提言をしたい。

自身の趣味嗜好がはっきりしていて、世間や周囲の見解がそれと一致している場合に、思考停止は発生する。一見すると正しくて、誰がどう見ても反論するのが難しい論件こそ、慎重になるべきだ。

まずは、嫌煙の論理をおさらいしてみよう

筆者自身は嫌煙家と愛煙家の、両方の気持ちがわかる中道派である、との自認をしている。ヘビー・スモーカーではない。時々煙草を一服することは好む、いわば「時々喫煙者」である。

煙草の臭いは嫌いだし、髪や服につくのはもっと嫌いだ。「あちらこちらに灰皿が配備されている世界」と「できる限り灰皿を撤去した世界」のどちらを選ぶかと言われたら、断然、後者である。

思えば、ほんの20年ほど前は、待合室や執務室など、公共の場所には灰皿が置かれているのが当たり前だった。いまやそのようなものは影も形も見当たらない。おかげで日ごろ過ごす空間は非常に清潔になり、快適になった。ありがとうございました。

  • 曰く、煙草の煙は不快な臭いであり、周囲の人にとっては迷惑である。

  • 曰く、副流煙は、周囲の人に望まない健康被害を強制的に生じさせるものであり、これは許されないことである。

  • 曰く、自身の健康を害するとわかっていながらもそれが止められないのは、セルフ・コントロールができない、意思の弱い人間である。

  • 曰く、世界の先進的な国や地域では喫煙という行為は禁止が当然となっている。この潮流に目をそむけるのは全近代的で野蛮な価値観のあらわれである。

「職場で喫煙をするべきではない」という考え方は、主にこの4点によって支えられてきた。現在の快適な環境は、この賜物である。

一方で、禁煙運動に警鐘を鳴らす論理とは、いかに喫煙が有害であると言えど、国が強制するものであってはならない、というものである。これらの論理は「喫煙を選択する自由」を否定する根本原理たり得ていなかったのだ。

前半の2点については、まさにこれを解決するために分煙化が進められている。

後半の2点については、「自己責任」の一言で済ませられると、嫌煙家としては二の矢を繰り出すことはできない。

そう、従来の禁煙運動の論理は、周囲に迷惑をかけないことを遵守する限りにおいて、「自己責任」という最終防衛ラインを突破することはできなかったのである。

愛煙家の「たしかに健康には悪いかもしれないが、それをやめるかどうかの判断は、個人の自由を保障するべき」という言い分は、民主主義や法の下の平等といった、近代的な社会システムの根拠としている人間観においては、論理的には否定することはできないのだ。

時々それは、世界で最初に禁煙運動を始めた、ナチスドイツのヒトラーを引き合いに語られる。ヒトラーは非喫煙者で、国民の健康増進運動の一環でたばこを禁止したが、それが優生思想に結びつき、最終的にはアウシュビッツまでたどり着いたのだ、と。

その根拠はどこにあるのか、という思想史的な原点を探すならば、やはり、ルソーの社会契約論になるのではないだろうか。すなわち、社会契約にあたっては「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてを挙げて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」という要件である。

「働き方改革」ブームで猛威を振るう「禁煙ロジック」

10月5日、小池百合子知事が実質的に率いる地域政党「都民ファーストの会」と公明党が共同提出した「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」が賛成多数で可決、成立した。家庭内での受動喫煙防止が柱で、施行は来年4月からだ。

この条例は、家庭内での禁煙を公的に強いるという、「喫煙を選択する自由」の制限に向けてかなり踏み込んだものだ。

そのための、「子どもを守る」という大義名分を持ち出したのは、目のつけどころがシャープであった。たしかにこれは、「自己責任」の論理では対抗できない。

ただ、嫌煙原理主義の陣営からすると、これではまだ不十分である。東京都の条例では「子どもを守る」としてこれに切り込んだわけだが、職場という大人の世界で煙草を駆逐するにはまだ足らない。そこで新たな一手として、近年まことしやかに語られている「禁煙ロジック」、それは「生産性」である。

仕事の途中で、煙草休憩と称して席を立つ人と、そうでない人が、同じ時間働いているからって、給料が変わらないというのは、おかしい。

近年の「働き方改革」ブームともあいまって、この新たな「禁煙ロジック」は強力な勢いで猛威を振るっている。

筆者は、つい最近、まさしくこれが経営会議の議題として討議される現場に居合わせたのだった。一部のメンバー、煙草休憩と称して長時間席を外すことがあまりに頻繁に目につく、サボタージュの隠れ蓑になっているのではないか、という話が発端となり、勤務時間中は全社全面禁煙にすべきか否か、との話となったのだった。

しかし「喫煙」=「席外し」=「サボり」というのは、あまりにも性急な図式である。