みずほ銀行の次期システム開発はなぜ炎上した?今さら聞けない合併・統合失敗の歴史【図解】

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記事の情報は2017-11-06時点のものです。

みずほ銀行の新システムが2018年にようやく完成し、移行スケジュールが示されている。みずほフィナンシャル・グループが発足した2000年から18年が経過したが、その間、みずほ銀行次期システム開発は、長らく経営の重しとなり続けてきた。富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行という三行合併の歴史を振り返り、混迷・失敗の背景を探ってみたい。(追記:2018年6月12日)

起こるべくして起こった度重なる遅延

大方の予想どおり、システム開発は難航することになった。当初、開発完了は2016年の予定だったが、2014年に一度目の延期が発表され、さらに2016年にも、完成が数か月遅れると発表された。情報システム関係者が指摘する、遅延の原因は以下のとおりだ。

複雑な開発体制

先に説明したとおり、みずほ銀行、情報システム子会社のみずほ情報総研、そして四社の大手ベンダーが入り組んでシステム基盤とアプリケーションを別々に開発するという体制は、開発体制の管理を複雑・困難化させたことは想像に難くない。

開発体制が複雑化、困難化することは、すべての工程に時間がかかることを意味する。すでに遅延の主原因として、システムテスト時の手戻りが指摘されているが、開発体制がもっとシンプルなものであれば、手戻りや遅延が防げたのではないかと考えられる。

開発人員の不足

みずほ銀行の新システム開発と同時期に、ゆうちょ銀行の新システム開発が行われていたこともあり、「日本中から金融ITの開発者、プロジェクトマネージャーが枯渇している」と言われていたことは有名である。インターネット上の掲示板では、明らかにみずほ銀行開発案件と思われる人材募集が有名になっている。

銀行のシステム開発案件は、肉体的にも精神的にも大変きついことで有名だ。2002年のシステム障害時に過労自殺したベンダーの話以外にも、表には出てきていないが少なくない人間がこれまでのシステム開発の最中に亡くなっている。

これについては、筆者も直接話を聞いたことがある。旧第一勧業銀行出身のシステム担当者は「うちのシステム開発では死人がでるのは日常茶飯事」と事も無げに言ったことに、背筋がぞっとしたことを覚えている。こうした評判があるため、「銀行案件には絶対に人を出さない」というシステム開発会社もあるほどだ。

そして加えて、みずほ銀行案件は、1988年に稼働開始した第一勧業銀行のシステムを踏まえての開発であり、約30年前のシステムの全貌を理解できる人はだれもいないという別種の困難さもあるようだ。高額の支払いで頻繁に人材募集が行われても、人材確保に苦労する理由はこのあたりにもある。

硬直的な文化

筆者が大学在学中に受けた、企業の人事に関する授業で「銀行員の入社年次と昇進について」何十年研究したものがあった。この授業では教授いわく「銀行では一度でも失敗すると、その後の出世の道はなくなる。よって、成功することではなく、失敗しないことが重要」という内容だった。

当時はそんな馬鹿なことがあるのか、と思っていたが、筆者が就職後にIT企業で金融機関向け営業となると、これが本当であることがわかった。

「失敗することを極端に恐れる文化」というのは、言い方を変えると「何もチャレンジしないことが安全な文化」となる。極端な言い方をすると「9勝1敗」よりも「0勝0敗10引き分け」のほうがよしとされるのである。

同じ銀行でも、情報システム部門は、営業のように成果が明確に数値化されるような職種ではない。成果が数値化できないということは、成果を測る指標が不明確で属人的になるということだ。

こうした文化の中で銀行員を支えるのは「保身」だ、自身がどう言質を取られないようにするか、トラブルが発生しても安全な立場にいられるようにするか、失敗する可能性があるプロジェクトへの配属をどう避けるかが重要となる。そして責任を自分たちがかぶらないようにするための「旧行同士の派閥争い」が激化した。