ピンチはチャンス! 獺祭が挑戦を続ける理由「昨日と同じ今日を繰り返さない」- BOXIL EXPO基調講演
本記事は、2020年9月に開催したオンライン展示会「BOXIL EXPO 2020 IT・SaaS・テレワーク展」の基調講演「ピンチはチャンス!山口の山奥の小さな酒蔵だからできたこと」をまとめたものです。
【登壇者プロフィール】
桜井博志 氏 旭酒造株式会社 会長
1950年山口県生まれ。3代目蔵元。家業である旭酒造は江戸時代の1770年創業。 1973年、松山商科大学(現松山大学)を卒業後、西宮酒造(現日本盛)で修行。1976年に旭酒造へ入社するも、父親である先代と対立して退社。1979年に石材卸業の櫻井商事を設立。 1984年、父の逝去を受けて実家に戻り、純米大吟醸「獺祭」の開発を軸に経営再建を実現。 著書に『逆境経営 山奥の地酒「獺祭」を世界に届ける逆転発想法』(ダイヤモンド社)などがある。
榎戸教子 氏 BSテレ東 「日経プラス10」キャスター
静岡県出身。大学時代にスペイン国立サラマンカ大学へ留学。さくらんぼテレビ、テレビ大阪のアナウンサーを経て2008年より経済キャスターに。現在、BSテレ東「日経プラス10」(月曜~金曜22時~)、「NIKKEI日曜サロン」(日曜9時30分〜)に出演中。企業経営者のインタビュー経験も豊富。趣味はランニング、ウクレレ。
「獺祭」生んだ革新の根幹にある思い
日本酒好きでなくともその名を知らない人はいないであろう、日本酒の革命児「獺祭(だっさい)」。開発を主導した旭酒造会長 桜井博志氏が、これまでのストーリーを語った。
日本酒業界の常識にとらわれずチャレンジし続けた桜井氏。なぜ彼はここまで前を向き続けられたのだろうか。モデレーターにキャスターの榎戸教子氏を迎え、一つの蔵元が遂げた革新の根幹に迫る。
石材会社立ち上げから酒造りへ
榎戸氏:旭酒造といえば、1990年に誕生した獺祭が知られています。2020年は誕生から30年の節目の年ですね。
桜井氏:獺祭を販売してからは本当にトントン拍子でここまできたという感じです。ただ、最近ではコロナの影響に加え、以前から見え隠れしていた大企業病的なものを乗り越えるのに苦労していますね。
榎戸氏:旭酒造は先代から受け継いだ会社ということですが、代表に就任される前は西宮酒造(現日本盛)で修業され、一度旭酒造に入社した後、1979年に石材会社を設立して独立されています。3代目に就任されたのは、1984年、先代が亡くなられてからですよね。
桜井氏:一度クビになったような形です(笑)。このときなぜ独立したかといえば、親子でひとつの事業に取り組むのが難しかったからですね。このままではいけないと考える私と、スタイルを変えたくない父とで摩擦が生まれてしまったのです。
父は高度経済成長時代の、いい時代の酒蔵経営を経験していたために、成功体験から逃れられなかったのだと思います。今までうまく行っていたのだから、やり方を変える必要はないだろうと。しかし、すでにその頃から日本酒業界全体が長期低落傾向に入っていたので、私としては「このままではいけない」という意識がありました。
榎戸氏:桜井さんが事業を引き継がれたのち、おそらくはお父様の想像を超える売上高に成長していますよね。30年で売上高が100倍以上に伸びたわけですが、業界全体としては厳しい状況だったと。
桜井氏:西宮酒造で修業をしていた1973年には、業界全体で年間の出荷数量980万石を記録していました。ところが今年6月までの1年間で計算すると260万石まで下がっています。
榎戸氏:現在はピークの3分の1以下になったということですね。このような中で、旭酒造も当時の看板商品、旭富士の価格を下げて販路拡大を狙う既存の路線から、高価格帯商品にあたる獺祭を製造・販売する方針に転換されています。経緯について伺ってもよろしいでしょうか。
桜井氏:どうすれば売れる日本酒を作れるのか考えたとき、役立ったのが石材の仕事での経験でした。石の場合、品質がいいと売れるんですよ。これは日本酒業界にはない感覚でした。
当時も「幻の銘酒」と呼ばれる銘柄はいくつかありましたけれど、それは遠い世界の話でして。大手メーカーの日本酒は、大量の広告と営業部員を使う白兵戦で売るのが基本でした。小さい酒蔵では酒屋さんと関係を構築して販売する形で、どちらにせよ品質は二の次だったんですね。
私が会社を引き継いだ当初は既存路線で売り上げを伸ばそうとしましたが、うまくいきませんでした。これは、世間が旭酒造に対して「品質は二の次でとにかく安い」日本酒を求めていないからではないだろうかと思い直しました。
そこで改めて純米大吟醸の売上を見ると、堅調に売れていることがわかりました。それどころか少しずつ上がっていたので、旭酒造の路線はこちらだなと思ったわけです。
榎戸:おいしいお酒を造ると消費者が気づいてくれる、ということですね。
桜井氏:初めはそこまで考えていませんでした。ただ、値引きして売っていくのはビジネスとしてかっこ悪いな、もっと褒められるようなものを売ってかっこよくビジネスがしたい、くらいの気持ちでした(笑)。
先行きが見えない不安との戦いの中で
榎戸氏:社長になってから獺祭が生まれるまで、先が見えない不安と闘っていたのではと思います。その状況はコロナ禍の経営者と通ずるものがありそうですね。
桜井氏:経営者は皆不安を抱いていることでしょう。だけどこういうときだからこそ、この状況で何ができるのか考え抜き、「何でもやってみる」しかないのだろうと思います。今までとは少し違うことをしてみる、チャレンジする。そして大切なのが逃げ足の速さです。
キャッシュフローが悪くなると途端に経営が傾くわけですすから、お金が回る間に撤退の判断もしなければなりません。そうすれば再チャレンジもできるでしょう。
榎戸氏:それは過去にご自身がされた経験から感じたことでしょうか。1999年にオープンしたレストランはかなりの資金を投入したと聞きました。
桜井氏:金額でいうと、2億4千万円をかけ1億9千万円の損失を出して撤退しました。レストランは、杜氏(※)を通年雇用できないか考えた末のチャレンジでした。杜氏は冬場しか仕事がないため通年給与が出るわけではなく、若い人が入って来づらい環境でした。そこで冬は日本酒、夏はビールを作ろうとしたわけです。
ただ、素人が調子に乗ってレストランまで出して、あの時は倒産の危機を感じましたね。当時の年商が約2億円、なのに損失は1億9千万円でしたから。最終的に、経営は資金繰りがよくなければいけないということを学びました。お金が回らなければどうしようもない。なぜうちが倒産しなかったかといえば、危機に陥っても奇跡的にお金が回ったから、この一言に尽きます。
※編集部注:杜氏は酒造りの責任者。冬季のみ酒造りを行う酒蔵が大半を占めるため季節雇用が慣例だった
“経験と勘”からデータに基づく酒造りへ
榎戸氏:旭酒造が工程を数値化して分析しているというのは有名な話ですよね。なぜデータによる酒造りを始めたのでしょうか。
桜井氏:一つの大きなできごととして、エクセルの登場があります。これまで杜氏の経験と勘に頼っていたものを、エクセルを使って計算できるようになりました。
私は酒造りについては素人でしたが、ひとつ気がついたことがあって。お酒は人間が造るのではなく、酵母と麹菌の2つの生き物が造るということ。この2つを最適な状況にすればおいしいお酒ができるのだから、水の量や温度をデータ化して最適な環境を再現いけば、杜氏に頼りきらなくてもいいお酒が造れると考えたのです。
榎戸氏:旭酒造は現在、杜氏は一人もいない状態ですよね? 先ほどお話いただいたレストランの失敗で杜氏が蔵を去ってしまったと伺いました。
桜井氏:はい、うちには杜氏は一人もいません。レストランで経営が傾いたときに去っていたのも本当です。杜氏の判断は正しいですよね。給料をもらえないかもしれないところにはいられませんから。その際に杜氏が部下を全員引き連れていなくなってしまったので、蓄積されていた経験やノウハウまで失われてしまいました。
ただ、これも結果としてはチャンスにつながる要因となりました。
杜氏がいなくなる前から獺祭造りに取り組んでいたのですが、これまでの酒造りを続けたい杜氏と、新しい造りに挑戦したい私との間に意識の剥離が生まれてしまって、なかなかうまく進んでいませんでした。それが杜氏がいなくなり、ゼロからのスタートとなったことで、たまっていた欲求不満をすべて出してやり切れると思ったんですね。
正直にいうと初めは65点の酒造りでした。しかしそれを続けていれば、単にマニュアル化された機械的な酒造りで終わってしまいます。私たちは、失敗を糧にしてブラッシュアップを続けています。お客さまには怒られるかもしれませんが、お酒は年々おいしくなっていますよ(笑)。
酒造り改革とともに進めた組織づくり
榎戸氏:正解のない挑戦に社員を巻き込み進んでいくのは大変だったと思われます。桜井さんが組織づくりで意識していたことはありますか?
桜井氏:初めのうちはとにかく社員の定着率が悪かった。ただ、一般的には社員が次々と変わる状態は良くないとされているけれど、反対にこれがよかったのではないかと考えています。成長する組織は人がどんどんと入れ替わっていく。そうして組織がつくられていくのだと。流動性のない組織が伸びるのはなかなか難しいのではないでしょうか。
榎戸氏:通常、杜氏制度のもとでは酒造りは冬期間のみとされています。ところが旭酒造は1年中酒造りを行っていますよね。それまで冬のみだった酒造りを通年にした理由は何だったのでしょう?
桜井氏:杜氏制度では、11月から春まで一切休まず酒造りを行います。しかし社員が酒を造るとなるとそうはいきません。通年雇用の社員からすると土日は休みたいわけです。
結局社員の休みを考えて、酒造りのスタートを早めて終わる時期を遅くしてと、全体の期間を延ばしてみたんですね。これでも日本酒ができたので、「じゃあ夏にも造ってみよう」とチャレンジしてみたら思いのほかうまくいきまして。それならと、通年で酒造りを行うようになりました。
常識を疑ってみると新たな道が見えてくる
桜井氏:杜氏がいなければお酒ができないという固定観念も、酒造りは冬に行うという慣例も、「そうでなければできない」ことではなかったと学びました。どの業界にもあると思います、「今までがこうなのだから、こうしなきゃいけないんだ」という結論で終わってしまい、議論されない常識や習慣が。
何かを変えると当然反発は起こります。例えば、杜氏のいらない酒造りをはじめたことで、まず杜氏や杜氏とともに酒造りを行っている酒蔵からの反発がありました。
榎戸氏:同業者やライバルからそういうことがあっても、桜井さんは動じないのですか?
桜井氏:気にはなりますけれど、当たる石が多いほどやる気になってしまうというか。チャンスがあると感じてしまうんですね。
コロナ禍でもチャレンジを続ける
榎戸氏:コロナ禍で行動が制限され多くの業界がダメージを受ている中で、新たなチャレンジの機運も高まっています。桜井さんは、今どのようなことにチャレンジしていらっしゃいますか?
桜井氏:うちもコロナ禍で商品が売れなくなり生産量を落としました。酒造りをしなくなると、酒蔵は暇になりますよね。それなら忙しいときにはできないことをやろうと思い、若い社員にチャレンジする機会を与えたんです。2人1組で、自分たちの力で酒を造ってみようと促しました。今の製造部長も入社から2~3年で責任のある立場にありましたから、今の若い社員もできるだろうと踏んで。
榎戸氏:時間があるからこそ現場の人材の教育に取り組んだ、と。
桜井氏:そうです。そしていざ酒ができたら、私が初めて作ったときのものより、今の製造部長が初めて作った酒より明らかに良いものができたんですよ。これは嬉しい誤算でした。
榎戸氏:ほかのチャレンジとして酒米「山田錦」の食用販売も始められましたよね。
桜井氏:消費が落ち込む中で、会社自体は生産量を落とすことで継続する目途が立ちました。当社は毎年8,000俵の山田錦を仕入れて獺祭を作ります。それを半分にすれば会社は保てると。ところが農家からすると4,000俵分の売上がなくなるわけですから大変です。彼らも破綻の危機に瀕してしまいます。
農家への申し入れを提案する社員に「ちょっと待て、その前に自分たちでできることを考えてからだ」といい、結果、山田錦をうちで販売することにしました。食用米ではありませんから、正直食味の面では劣ってしまう部分があります。それでも、購入してくださる方が数多くいらっしゃいました。ほとんどボランティア精神ですよね。本当にありがたいことです。
獺祭が挑戦を続ける理由
榎戸氏:これから会社の財産をデータ化していく際に、企業はどのような点に気を付けるべきとお考えでしょうか。
桜井氏:まず「データがすべてではない」ことをわかっておくべきだと思います。私はさまざまなものをデータ化してきました。しかしこのデータはあくまでも今日現在までのものでしかなく、未来はわかりません。
そして一つのものごとだけをデータ化するのでは終わらないということ。何かをデータ化すると、次に別のデータが必要になる。そうやってどんどんと踏み込んでいくことが重要だと考えています。獺祭もまだまだ成長していきますよ、まだわからないことが数多くありますから。
例えば、酒造りの途中で酵母が出す「エクソソーム」。これは免疫機能の面で今脚光を浴びているものです。しかし、完成した日本酒にはエクソソームが存在しないんですね。そのため、これまで酵母が出すエクソソームの存在自体が知られていなかった。働きもまだわかっていないので、これからデータ化してもっと踏み込んでいく必要があるわけです。
榎戸氏:また来年には違うものができあがるというわけですね。日々変化をいとわない、と。
桜井氏:というよりも、会社が、酒蔵が、健康体であり続けるためには、昨日と同じ今日だとだめなんですよ。常に前を向いて進んでいかなければならない。失敗することももちろんありますが、失敗も大事なんです。
榎戸氏:息子の桜井一宏さんに社長を譲ってらっしゃいますが、これからの旭酒造が目指す姿はどういったイメージでしょうか。
桜井氏:私たちは、社会から必要とされるものでなければ生き残れない、という現実と対峙してきました。獺祭として社会に貢献できるものは、「おいしい」と思われる酒を造り続けることだと思います。お客様の成長スピードに負けないよう、私たちも酒の品質を高めていかなければと考えています。そうしながら資金繰りをなんとかする。酒蔵も企業ですから(笑)。
榎戸氏:そうおっしゃいますが、これからのチャレンジもいろいろ調べていますよ。期間限定のコンセプトバー「獺祭バー」、ニューヨークでの酒づくり、「最高を超える山田錦プロジェクト」。いろいろ計画されているではないですか。
桜井氏:そうです。よくやるよね、全く懲りていない(笑)。
榎戸氏:桜井会長も、海外展開を積極的に進めた方がよいとお考えでしょうか。
桜井氏:旭酒造がある場所は今でこそ岩国市ですけど、合併前は玖珂郡周東町大字獺越という住所でした。「大字(おおあざ)」とつくくらい山の中で、市場がものすごく小さかったんです。地元だけを向いていると生きていけないという現実があって。皮肉なことに、世界展開を考える大きなチャンスでもありました。おそらく今年で海外の売上比率が4割を超えると思うのですが、どんどん伸ばしていくべきだと考えています。
私は酒蔵が好きで、ありがたいことにこれを仕事にできています。こんな幸せなことないわけですよ。これからも、向き合い続けたいと思います。
ピンチの時こそチャンスがある
業界にある常識を覆し、次々と新たな施策を打ち出し成功に導いてきた桜井氏。ピンチに陥った時こそポジティブな言葉と行動で経営を続け、ついには、獺祭を誰もが知るブランド日本酒に押し上げた。
経営を続ける中で、何度も訪れた危機を変革のチャンスと捉え、データ化や通年の酒造りなど常識にとらわれない施策を推し進めてきた背中を見て、コロナ禍で日々不安に押しつぶされそうな経営者も「ピンチをチャンスに」変えようと奮起したのではないだろうか。
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※掲載内容はイベント登壇時点のものです